あっと驚く同位体効果

同位体(isotope)というのは電荷は同じだけど原子核の重さがちょっと違う原子でできた分子のそっくりさんのことです。

ちなみに同素体(allotrope)は同じ元素からできてるけど結合の仕方が違うやつらのことで、こっちは概して分子自体の性質がまるで違います。ダイアモンドとグラファイトとかそーいうやつです。

では同位体同志の分子の化学的性質がそっくりなのは一体なぜなんでしょうか。

それは化学的性質を支配しているのは原子核ではなくその周りにいる電子であるためです。電子は原子核電荷に相当する分いて、その電気的な影響を受けます。同位体電荷を担う陽子の数は同じで、重さが増えるだけの中性子が多いか少ないかだけが違うやつらなので外にいる電子には違いが分かりにくいのです。

こういったちょっと重いだけのそっくりさんを化学的な手法に頼らずに分離するのは結構大変な作業で、わずかな重さの違いによる物性の差を利用して軽い元素(13C, 15N)では気体にして低温蒸留でわけたりしているらしいです。

そんなやっかいな同位体の中で最も性質が異なるのが水素の同位体です。水素は最も軽く陽子を一個しか持っていません。そのため中性子がつくつかないといった微妙な差が最も顕著に化学的な性質の差に現れるのです。

その差を見たぜっていう論文がちょっとまえに投稿されました。

A primary hydrogen-deuterium isotope effect observed at the single-molecule level

S. Lu, W.-W. Li, D. Rotem, E. Mikhailova, H. Bayley, Nature Chem., 2010, 2, 921

重水素にさまざまな同位体効果があること自体は既知なのでどういう効果を観測したのかが論文のインパクトと直結します。

対象とした分子はα-haemolysinという膜たんぱく質の117番目のCysにubiquinoneという小分子を共役付加させたでかぶつです。ubiquinoneを重水素標識しておくことでチオール基の付加が起こってから重水素の脱離が起こるまでの短時間の間、通常水素がついているはずの場所に重水素がついている同位体中間体を形成することになります。

この分子は膜に穴をあけイオンを出し入れしたりすることができるのですが、117番目のCysに修飾を加えるとこの性質を変化させることができることが知られています。この性質はubiquinone付加前(状態A)、ubiquinone付加して水素(重水素)脱離前(状態B)、水素(重水素)脱離後(状態C)の3つでそれぞれ違っており、これら3状態はチャネルレコーディングで一分子単位で区別して観測することができます。

このうち重水素による標識で分子種が変わるのは状態Bだけです。でかいタンパク質複合体のほんの一原子が若干重い同位体に代わっているだけのわずかな違いです。

この状態Bの存在時間が重水素に置換すると長くなることが一分子チャネルレコーディングで判明したぜっていうのが論文の主旨です。

突っ込みどころはいろいろありますが、まずターゲットでかすぎるだろというところが一番目を引きます。

単なるマイケル付加でも相手は水溶液中にいるフォールディング済みの膜たんぱく質です。化合物の取り扱いの難しさは普通の有機合成の比ではありません。

なんでこんな方法を選んだのでしょうか。

それはチャネルレコーディングは一分子の挙動を追跡できる測定法だからです。たくさんの分子のなかに反応中間体はどれだけいるかという測定ならほかの方法でもできます。しかしそれはあくまで平均してどれだけ存在しているかの情報でしかなく、注目する中間体がどのように反応経路に関わっているかはいまいちわかりません。

とある中間体が存在していることと、それが化合物の生成の際に通る中間体であることは同義でありません。この手の悩みはたくさんの分子を平均化して測定することそのものがはらむ問題点なので何とかするには測定法を変えるしかありません。

論文を読む限りこの重水素効果の測定はメインプロジェクトのおまけ実験のように見えるのですが、いずれにしてもかなり凝った実験系だと思います。それでも書き方次第でNature Chem通るんですね。見習わねば。